日本人が好きな歴史人物は?あなたの好きな歴史人物というテーマでたっぷり語ってもらった

あなたの好きな歴史上の人物は誰?

というテーマで、このブログで募集をかけてみた所、

ちょっと意外な人物の名前がよせられました。

日本人の好きな歴史上の人物と言えば、思い浮かぶのが、

坂本龍馬や織田信長などだが、

今回は全く違う人物の名前を上げてくれる人が多かったです。

では、早速いってみましょう。

今回は日本人もいれば、外国の歴史上の人物もいました。

私が尊敬する先生

私が好きな歴史上の人物は、たくさんいますが、

1番好きな人物は、中村半次郎、のちの、桐野利秋です。

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好き、というよりもう尊敬する大先生です。
中村半次郎は、天保9年、薩摩の吉野村実方に生まれました。

その頃は城下士とはいえ暮らしは貧しく、

半次郎も昼は畑仕事をし、夜は紙をすく暮らしでした。
西郷隆盛の話は、以前から聞いていたようで、

西郷が江戸から薩摩に帰ってくると、

実方から上ノ園町までの、長い距離を山越えで歩いて、

教えを乞いに通いました。
その後、西郷は2度の遠島という憂き目に合いますが、

彼の弟子となっていた半次郎は、

他の教え子達とともに、大久保一蔵(のちの大久保利通)に伴われ京へあがりました。
ある逸話が残っています。
京に上がりたかった半次郎でしたが、推薦者になってくれる人がいませんでした。
何とか西郷に、推薦して欲しくて、それを頼みに自宅まで訪ねて行く事にしました。
手土産でも、と思いましたが、赤貧の半次郎の家。

土産物1つ準備する事が出来ません。

台所には、苦労して育て、収穫した薩摩芋が置いてありました。
半次郎は、形のよいものを選って、芋3本を風呂敷に包み、西郷に手渡しました。
たまたま、それを眺めに来ていた西郷の弟が、

兄が風呂敷を広げて芋を見て、歓声をあげるのを見て、

吹き出してしまいました。土産物に、芋3本が余程可笑しかったらしいのです。
西郷は、烈火の如く怒り、弟をきつく叱責します。
「半次郎の家は、その日食べる物もやっとの暮らしである。

その中で、持参してくれたこの土産に、

おいは(俺は)いけん答えようかち、心苦しくなっておったに、おはんな(お前は)そいを笑うとか!」
と、涙を流しながら弟を叱る西郷の姿に、

半次郎は感動し、自分のいとこの別府晋介を連れて来ます。
この、別府晋介は、西郷に心底心酔し、

西南戦争では西郷の介錯も務めるのです。
中村半次郎は、戦上手で剣の腕が強く、

「人切り半次郎」とも呼ばれました。
しかし、彼が戦以外で人を切った、

というはっきりした記録は、数える程しかありません。
それでも、半次郎の強さは有名なもので、

新撰組局長近藤勇は、隊士達に、
「薩摩の中村半次郎だけは、出くわしても相手にするな」と、

異例の達しをしたそうです。
香水をたしなみ、おしゃれが好きな色男で、

随分と女性にモテたようです。
男性からも女性からも慕われたそうで、

困った人を見ると、面倒を見ずにはいられない、優しい人だったそうです。
学べば学ぶ程、興味深くなる人です。

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自分がリスペクトする偉人カエサルについて

僕がリスペクトする偉人はカエサル(紀元前100 – 紀元前44で)です。

彼の正式名はガイウス・ユリウス・カエサルです。

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彼の政治家・軍事人としての業績は、

共和制末期の内外の混乱を収拾させ、後の帝政 ローマ帝国の礎を築いたことです。

カエサルが、政治の世界において台頭したのは、

クッラスス・ポンペイウスとともに行った第一回三頭政治(紀元前60)に おいてであり、

その中でも、コンスル(執政官)として、ガリア人の大規模な反乱とローマとの戦い(ガリア戦争)で、

ローマに勝利をもたらし、カエサルは名 声を高めました。

カエサルは、文筆家としても有名で、

ガリア戦争の一連の経緯を綴ったのが古典的な名著として知られる「ガリア戦記」です。

しかし、第一回 三頭政治はクラッススの戦死とともに崩れます。

クラッススの死により、カエサルとポンペイウスとの対立が激化し、

ローマは内乱状態に陥ります。

この時、カ エサルがルビコン川を渡る際に言ったのが名言として有名な「賽は投げられた」です。

その後、カエサルは、ポンペイウスとの戦いに勝利し、

元老院を武力で制 圧して、終身独裁官に就任し、共和制の伝統を破り、

単独の支配者として、ローマの改革に乗り出します。

けれども、カエサルの権力の拡大と、共和制の伝統を 破ったことへの反発が高まり、

彼は、暗殺されます(紀元前44)、

その時に発した言葉が有名な「ブルータス、お前もか」です。

カエサルは改革の半ばで暗殺 されますが、

彼の意思は、義理の息子オクタビアヌスに引き継がれ、

オクタビアヌスがアウグストゥスの称号を受けた時からローマは、

帝政ローマの時代に突入します。

カエサルはこのように、政治と軍事において大きな業績を、

残した独裁者としてのイメージが強いですが、

それ意外に、あまり知られていないチャーミング面もあります。

カエサルは、頭髪が薄いのと、性欲が絶倫で女性関係が派手なことでも有名で、

そのことに関してのエピソードが、

「ハゲの女たらし」です。

ローマでは、凱旋式の際、兵隊が将軍に向かって野次を飛ばす習慣があり、

カエサルの凱旋式際に、兵隊達が言ったのが「ハゲの女たらし」です。

これに対 して、カエサルは、怒ることもなく、

ニコニコ笑顔で答えたようで、彼には、このようなユーモアの感覚に優れた所も、

カエサルの愛すべき人物にしています。

しかし、皮肉なことですが、カエサルが多数の愛人の中でも特に可愛がっていた、

セルウィリアはあのブルータスの母親で、

一般には「ブルータス、お前もか」 で知られる、カエサル末期の言葉も、

異なる伝承では、「お前もか、息子よ」と叫んだと記され、

こちらの方が、自分は、カエサルとブルータスの関係を考える と真に迫っていると思います。

ベアトリーチェ・チェンチ ~ 悲劇の悪女

グイド・レーニ作「ベアトリーチェ・チェンチの肖像画」を見た事が有るでしょうか。

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頭にターバンを巻いた可愛らしい美女が振り返っている絵です。

彼女の名 前はベアトリーチェ・チェンチ、

イタリアの名門貴族チェンチ家の娘で、悲劇的な最後を遂げた人物です。

ベアトリーチェの父親であるフランチェスコ・チェン チは獣の様な人物であり、

妻や息子に殴る蹴るの暴力を振るい、何度も犯罪を起こしては投獄される様なローマ市民の嫌われ者でした。

ベアトリーチェは幼い頃から美人で、

思春期を迎える頃には絶世の美女と言われるまでに美しくなります。

この美しい娘をフランチェスコは病的に寵愛し、

誰とも結婚させずに城に監禁 したと言われています。

そしてあろう事か、実の娘を襲い純潔を奪ったのです。

己の純潔を奪った父親への復讐の為、

ベアトリーチェは義理の母親と兄、召使い 達と画策してフランチェスコを殺害します。

家族一丸で父親の死を誤魔化そうとしましたが、結局は足がついてしまい、

チェンチ家の人々は逮捕されました。

しかし彼女は拷問を受けながらも決して自白はしなかったと言います。

当時のベアトリーチェは22歳のうら若き乙女であったにも関わらず、

拷問に耐えて口を割 らなかったのです。

儚げな容姿とは裏腹に強くて誇り高い女性だったのでしょう。

その誇り高さ故に父親の所業が許せずに、

殺害に至ってしまったのかと思うと 遣る瀬無い気持ちになります。

ベアトリーチェの処刑にローマ市民は同情し、彼女の処刑に反対したと言います。

しかしながら彼女はたった22歳の若さで斬頭 台に消える事となったのです。
ベアトリーチェの魅力を一言で表現するなら「恋をさせる人」でしょうか。

ベアトリーチェがした事は聞く限りだとよく有る話なのに、

何故か人を引き付けて離 さない魅力があります。

実際フランスの作家であるスタンダールもベアトリーチェの肖像画を見て酷く心惹かれて、

彼女をモデルに話を書いたと言われています。

その他にも映画や音楽、美術にもベアトリーチェをモデルにしたものが数多くあり、

如何にベアトリーチェが人を引き付ける魅力があるかを物語っています。
ベアトリーチェの処刑に反対したローマ市民も、

数多くの芸術家たちも、そして私も、

きっとベアトリーチェの魅力に憑りつかれたのでしょう。

ベアトリーチェ の肖像画を見ると、まるで恋でもしているかの様な気になり、

胸が痛んできます。

ベアトリーチェは死して尚、多くの人を恋に落としてしまう魅力があるのだと 私は思います。

女スパイ・川島芳子について思う事

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川島芳子は「東洋のマタハリ」「男装の麗人」等の呼び名で知られる旧日本軍の女スパイだった人物です。

彼女は清王朝の筆頭王族である粛親王の第14王女として中国で生まれました。

一国の王女として生まれながら、

男装して日本軍の女スパイとして暗躍した彼女は、

まるで小説の主人公の様なカッコ良さがあると思います。

彼女が生まれた時代は、ちょうど清王朝末期の激動の時代でした。

かつて栄華を誇った清王朝は衰退し、

粛親王は国の復興の為に友人でもあった日本人、川島浪速に娘を養女に差し出しました。

川島芳子が8歳のときです。

彼女は川島家の養女として日本で教育を受けましたが、

17歳のときに自殺未遂を起こし、その後髪を短く切り「これからは男として生きていく」と宣言したのです。

なぜ彼女がこの様な行動を取ったかは今もって謎ですが、

一説には養父である川 島浪速に暴行を受けた為ではないかとも言われています。

芳子はその美貌と高貴な血筋と男装スタイルで世間から注目を集め、

一躍時の人となりました。

その後 彼女は満州国建国に従事し、

関東軍の自衛団の総司令に任命されるなどで益々世間から注目されるようになりました。

しかし芳子は日本軍から利用され、役職も 実は肩書きだけだったと言います。

世間からの人気も一時的なものに過ぎず、

利用価値が無くなった芳子は日本軍から厄介払いされたと言います。

終戦後は自分 が守ろうとした祖国から売国奴と罵られて逮捕され、最後は処刑されたのです。
こうして見ると芳子は正に悲劇のヒロインと言った表現がぴったりですが、

実は芳子は中々の悪女だった様です。

「日本軍は芳子を利用した」とよく言われてい ましたが、

芳子の方が日本軍を利用していたのだとも言われています。

彼女は権力のある人物には女を武器に懐柔し、

利用価値の無い人物には冷たく当たり、

また気に入らない人物は権力を用いて「始末した」とも言われています。

実際芳子は10代の頃に人前で子猫を虐め弄び、

飽きたら海に投げ捨てるという残忍な行 動を取っていたという記事を読んだ事があります。

とても悲劇のヒロインがする所業ではありません。また彼女の死後には「川島芳子生存説」が囁かれ、

近年に なって処刑されたのは替え玉で、芳子は生きていたと言う説は有力なものになっていると聞きます。
小説の主人公の様な生い立ちと悲劇のヒロインの様な最後を遂げた川島芳子、

かと思えば実は悪女で替え玉を使って生きていたなんて、なんと強かで狡猾なのでしょうか。

周囲に居たら絶対に近づきたくないタイプの人物ですが、

何処か惹かれてしまう、彼女にはそんな「悪女」としての魅力があります。

私が好きな歴史の人物 ~ 天璋院篤姫について

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「天璋院篤姫」と言えば2008年に大河ドラマで放送されて話題になった為、

知っている人も多いと思います。

篤姫は徳川幕府の長年の敵とも言える島津家の 出身でありながらも、

徳川の為に尽くしたその気概や誇り高さは正に「武家の女」と表現するのにピッタリたど思います。

篤姫は薩摩藩島津家の分家である今泉 島津家の出身です。

まず注目して欲しいのは、篤姫が名君と名高かった当時の藩主である島津斉彬公の養女となり、

最終的には御台所(将軍の正室)になったこ とです。

斉彬公は次期将軍に一橋慶喜を推薦するために当時の将軍の御台所として篤姫を送り込もうとした訳ですが、

それは名君と言われた斉彬公に「この姫な らば事を成せる」と信頼されたからです。

当時は分家の娘が本家の養女になる事でさえ大変な出世であったにも関わらず、

歴史に名を残す程の名君に認められ、

将軍の正室という大役を任せられるなど篤姫がどれほど聡明で度胸のある人物なのか想像するに容易いでしょう。
結果的に篤姫は次期将軍に一橋慶喜を推薦することは出来ませんでしたが、

彼女は徳川家の嫁として大変な偉業を残しました。

大政奉還後、徳川家は朝敵として 様々な藩から攻められる事となります。

その中には篤姫の実家である薩摩藩もありました。

彼女が実家に助けを求めていれば薩摩藩はその申し出を受け入れたか もしれません。

しかし篤姫は助けを求めるような事はしませんでした。

「私は徳川の人間だから」と最後まで徳川の為に尽くしたのです。

また江戸城を明け渡す 際に、篤姫は自分の持ち物であった着物、

調度品、装飾品の類を全て居間に広げて置いてきたそうです。

それは「江戸城大奥がどれ程素晴らしかったかを薩長に 見せつける」為でした。

私はこの話を聞いたとき、純粋に篤姫の事を尊敬しました。

城を立ち退く最後まで誇り高くあり続けたその姿勢は、

まさしく女王と呼ぶ に相応しい器量なのではないでしょうか。
篤姫は明治維新後も実家を頼る事無く、

徳川宗家の跡取りを教育するなどして徳川家存続の為に尽くしたと言います。

彼女が残した言葉に「女は嫁いだ家が死に 場所でございます」というものがありますが、

まさしく篤姫は徳川家を自分の「死に場所」として己の志を徹底的に貫いたのです。
もしも篤姫の様な境遇に陥ったら、

恐らく殆どすべての女性は実家を頼り、嫁ぎ先を見捨てるのではないかと思いますし、

それが普通だとも思います。

強い志と 誇りを持って、周りに流されることなく自分を貫いて生きていく。

篤姫は私の理想であり、こんな風に生きていきたいと思っています。

 尊敬する作曲家ブルックナー

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私が大好きな偉人は1824年にオーストリアのリンツに生まれた作曲家、

アントン・ブルックナーです。
彼は数多いクラシック作曲家の中でも稀に見る変人と言われていながら、

残した習作を含む11曲の交響曲は、クラシック音楽史上に燦然と輝く存在となっています。
教会のオルガニストをしながら作曲をしていた為、

彼の音楽には随所にオルガン的な響きが感じられます。
また、彼はドイツの作曲家であるリヒャルト・ワーグナーを尊敬しており、彼から多くの影響を受けています。
しかし、彼自身と彼の書く音楽にはかなりのギャップがあり、

何故彼がこれほどの曲を書けたのかが、クラシック史上の大きな謎とされているほどです。
前述した通り、彼は大の変人でした。
彼がどれほど変人だったのかを物語るエピソードはいくつかあります。
彼は十代の少女が大好きなロリコンで、

道端などで会っては何度も求婚を迫るという事を、生涯続けていました。
それでは当然結婚できる訳もなく、生涯独身でした。
他にも、死刑囚の裁判を傍聴し、その死刑囚の為に夜通し祈ったり、

昼間にお風呂に入っている時に来客が来た時に、

全裸のまま玄関に出たり、

海岸の砂浜の砂粒を一つ一つ数えなければ気がすまなかったりと、エピソードに事欠かない人でした。
また、彼は内気で、極度に自分に自信が無かった為、

せっかく自分で作曲した曲も、

弟子に少し指摘されただけで不安になって何度も書き直すという作業をしていたため、

彼の交響曲の楽譜にはいくつもの違う版があり、とてもややこしい事になっています。

しかし、そんな彼が書いた交響曲は、クラシック通を唸らせる程玄人好みの作品です。
彼の交響曲の中には壮大な自然や宇宙的な広がり、

神の存在を感じさせる曲想があり、一聴しただけでは全く理解できないほど難解な構造をしています。
交響曲の平均演奏時間も一時間程と比較的長い曲ばかりな為、初心者が容易に手を出せるものではありません。
しかし、ひとたびハマると彼の音楽は無くてはならないものになり、

この作品たちに出会えて良かったと、心の底から思えるようになります。
確かに、何故彼がこれほどの曲を書けたのかというのは大きな謎であり、

今でもあまり理解されていません。
それでも、彼の曲を聴いているとそんな事は全く気にならなくなるのです。
それは彼がとても純粋な人間だったからではないでしょうか。
心底純粋であった彼だからこそ、この宝物のような作品たちを書けたのだと思います。
私はそんな彼大好きであり、大きな尊敬を抱いているのです。

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