真田幸村と伊達政宗はどんな関係なのか?戦ったのは道明寺の戦い?

真田幸村と伊達政宗の関係について書きたいと思います。真田幸村と伊達政宗はゲームや漫画などで登場する事が多い。この二人ってどんな関係なのか?真田幸村は、1567年生まれ、(一説には1570年)、伊達政宗も1567年生まれ、同年代なのである。実際に戦ったり接点はあったのでしょうか?という事で歴史が好きな人にこの二人の事を聞いてきたので、今日は紹介します。

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私が考える真田幸村と伊達政宗の関係(時代劇大好きなKさん)

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真田幸村と伊達政宗、この二人が関係する物語や話は聞いたことはありません。真田は信州(長野県)上田城の小大名の息子、伊達政宗は米沢(山形県)の武家 の生まれです。小大名だった真田真幸(幸村の父)は小さい頃から幸村に人質生活をさせて自分の領土を守っていました。小大名なので武田、徳川、豊臣など次々と主君を変え生き残りをはかっていたそうです。だからといって弱いということはなく、徳川と2度戦い勝っています。ゲリラ戦が得意でわずかな勢力で大 軍を打ち破る戦略に長けていました。真田家は代々優秀な子が生まれ、領民にしたわれていました。主君を次々と変えたのも領民を守るためでした。

一方、伊達政宗は米沢の小大名の子供に生まれますが、天性の戦上手で次々と領土を拡大していきます。米沢と信州はそんなに遠くはないですが、真田幸村と 伊達政宗が戦ったという記録はみたことはありません。また、関わった記録もみたことはありません。伊達は次々と領土を拡大し天下統一を狙う野望がでます が、生まれが遅かったため豊臣秀吉の家臣にくだり、豊臣秀吉が天下統一を果たすことになりました。秀吉が天下を統一したため戦の理由がなくなり平和になりましたが、秀吉の朝鮮出兵があり真田、伊達も朝鮮出兵していたそうです。やがて秀吉が亡くなり、朝鮮出兵が終わると次は徳川家康が台頭していきます。

家康 が天下を狙ったため、豊臣家臣の石田三成が挙兵し、日本を二つにした関ヶ原の戦いがはじまりました。このとき、真田幸村は石田三成方の西軍につき、伊達政 宗は徳川方の東軍につきます。関ヶ原の戦いは二人は参加していないので実際に戦ったわけではありませんが、軍の形上は敵同士になりました。関ヶ原の戦いで 東軍の家康が勝ったので、西軍の真田は蟄居という形で父親と一緒に隠居になりました。伊達は東北の地を与えられました。それから時がたち、今度は大坂の陣が始まります。徳川を許さない豊臣方が兵を集めます。このとき真田幸村は豊臣方に迎えられ大坂の陣で家康と戦います。

結果、大阪夏の陣で真田は討たれて亡くなります。伊達は大坂の陣では家康の子供を守るという理由で戦場には遅れています。伊達は生き残り、東北の大名として江戸幕府を支えました。この歴史をみると敵同士だったのは関ヶ原の戦いですが、実際は戦っていません。主君も同じだった時がありますが、真田と伊達の関係は詳しく書かれた書籍はみたことありません。

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同じ年齢ではあったが、立場が違うそれぞれの戦い。(歴史好きFさん)

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真田幸村(真田信繁)は真田昌幸の次男で、「大坂の陣」まではとくに戦での活躍はなく、武将としては恵まれない環境でした。一方、伊達政宗は仙台60万石以上の石高(全国3位)を誇る大名です。領地を持たない真田幸村と大名の伊達正宗。立場は両極端ですね。自分が死んでしまった後、残されたこどもたちのことを心配し、また、こどもたちに、真田家の復興を託した真田幸村は、敵である片倉重長の戦いぶりから、こどもたちをぞんざいにはしないだろうと思い引き取って欲しいと嘆願します。片倉重長は阿梅・阿菖蒲・おかね・女子(名前不詳)・大八と穴山小助の娘を保 護し、のちに、阿梅は、侍女として使えますが、片倉重長の正室である、指月院に妹のように可愛がられており、亡くなる時に「自分に代わって重長の妻になるように」との言葉をいただき、続室となります。次男である大八は元服すると片倉守信と名乗りました。

豊臣側の男子は殺されていたので徳川幕府の目から守信を守るためでした。伊達家は真田の子を匿っていないか徳川幕府に追求をされますが、うまくその場をやりすごします。片倉守信の子である片倉辰信の代で、「既に将軍家をはばかるに及ばざる」の内命をうけ、真田姓に戻しています。真田幸村と伊達政宗の直接の関係は大坂夏の陣で戦ったくらいですが、丘陸に陣をとっていた真田幸村が大坂方の敗走が伝えられ、撤退の際に追ってこなかっ た伊達政宗の義にかけた真田幸村が、猛将:片倉重長にこども達を預けることによって、家の方で繋がりがあったようですね。

戦いとしては、「大坂夏の陣」真田隊は3.000と日雇いの浪人などで構成されました。それに対し伊達隊は、家臣と伊達領の将兵からなる10,000あ まりの勢力でした。勢力にも大きな差があります。「道明寺の戦い」にて伊達政宗隊の先鋒を銃撃戦の末に真田隊が一時的に後退させました。ここで一番危険な 役目である殿を務めた真田隊は、追撃を撃破しつつ、豊臣全軍を撤退させることに成功しています。伊達政宗が勝者となりました。真田幸村はそのすばらしい戦いぶりから、負けてもなお、「真田の兵日本一」などの名を残しました。

真田幸村と伊達政宗の関係性について(歴史マニアZさん)

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戦国武将は現在でも大変人気がありますが、その中でも特に有名で人気がある武将といえば真田幸村と伊達政宗でしょう。この2人はゲームなどでは競演していますが、果たして史実で関わりがあったのでしょうか。結論から言うと、ほとんど関わりがありません。なぜなら真田氏は信濃、今で言う長野県の戦国大名であり、伊達氏は陸奥南部、今で言う宮城県辺りの戦国大名なので、遠すぎてあまり関わりあいはありませんでした。当時の真田幸村は信州の小大名の一族として、徳川などの大大名と渡り合っていました。最終的には関が原の戦いで西軍について、30000以上の東軍の足止めに成功しますが、関が原で西軍本体が敗れたので領土を取り上げられた上戦後に紀伊、今の和歌山県に流されます。
一方伊達政宗は東軍として西軍の上杉氏と戦います。そのうち関が原で東軍本体が勝利したので、東軍に味方したということで多少の領土を加増されます。(何故多少なのかというと戦前に行っていた色々な裏工作がばれ、徳川氏の不興を買ったからです)

ここまでは両者の人生は特に交わりませんが、この後大坂夏の陣が起き、真田幸村は豊臣方に、伊達政宗は徳川方について戦います。その時に両者は始めて刃を交えるのです。両者が戦ったこの戦いは道明寺の戦いと呼ばれ、結果は痛み分けに近い形で終わっています。道明寺の戦いは突出した豊臣方の先鋒3000を30000以上の徳川方(伊達軍含む)が袋叩きにするところから始まります。孤立した豊臣方は奮戦しますが、圧倒的な兵力差はどうにも出来ず敗走します。

その後真田軍を含む豊臣方の本隊が現れ、徳川方と本格的な戦闘に入ります。本隊が到着しても豊臣方の兵力は徳川方の半分程度でしたが、上手く敵を押し返し、激戦を展開します。そして戦線は膠着し徹退命令が出たこともあり豊臣方は徹退、伊達氏含む徳川方は朝から戦い続けていて疲弊していたので、深追いせず敵を見逃します。この真田幸村と伊達政宗の最初で最後の戦いは、結局痛み分けに終わりました。その後真田幸村は大阪の陣で奮戦後戦死し、伊達政宗は東北の大大名になり大往生を遂げます。
これが両者の最後となります。

まとめ

真田幸村と伊達政宗は同じ年齢である。

生まれ育った場所は遠く離れていて、殆ど接点はない。

敵味方に分かれて戦ったのは、道明寺の戦いである。

真田幸村は戦死し、伊達政宗は徳川幕府で大大名となります。

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