昭和の事件日航機墜落事故、賠償、原因、社会に大きな影響を与える

今回は昭和に起こった事件の中でも、インパクトを受けた事件で必ず、上位にあげる人が多い、

日航機墜落事故について書きたいと思います。

この事件について数名の方にこの事故について語っていただきました。

この事故の概要を簡単に紹介します。

発生した日:1985年

乗客:524名

生存者:4名

多数の方が亡くなったこの事故は今でも人々の脳裏に焼き付いている事故である事は間違いない。

遺族に賠償金は支払われたんだろうか?

賠償金は支払われた様です。当然ですよね。

当時の金額で約600億円が支払われたそうです。

原因

原因は飛行機の後部修理にミスがあり、飛行中に飛行機が破損したのが墜落の原因だそうだ。

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画像:http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Bulkhead_Repair_ja.png

当時この事故が世間に与えた影響

昭和に起こった事件の中で一番衝撃を受けた事件は何か?と聞いた時、この事故の事を上げる人が多い、

この事件について、4名の方に語ってもらったので、最後にそれを紹介して終わります。

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日航機墜落事故に思う

今からちょうど30年前の1985年(昭和60年)8月12日18時56分に、

日本航空のボーイング747ジャンボジェット機体が、

群馬県の高天原山の尾 根(今は御巣鷹の尾根と呼ばれています)に墜落した事故、

いわゆる日航機墜落事故が、今までで一番衝撃的でした。

なぜかというと、その時、私はちょうど群馬 県にいたのです。
私は、当時新潟県に住んでいたのですが、

お盆休暇を利用して家族で8月10日から12日の日程で、東京に家族旅行に行っていました。

8月10日は、新潟か ら群馬、埼玉、東京へ行き、

8月12日は、東京から埼玉、群馬、新潟で帰りました。まさに、

帰りのその時に日航機123便が墜落したのです。

日航機が墜落 した御巣鷹山は、群馬県西部の山梨県の近くにあり、

当時使った上越線は、群馬の中央を通っており、

また、群馬を通った時間は、すでの日航機は墜落していて、

日航機が私たちが乗った電車に墜落してくることはまずなかったのですが、

家に帰って、テレビで大騒ぎをしているのを見て、驚きました。

私達が、まさに 通ってきたところの近くにジャンボジェットが墜落したのです。

電車に乗っていた時に空を見たら、光る点が見えたのを覚えていて、

もしかしたら、墜落した飛 行機を目撃したのかも?

と震えましたが、あとで時間的にあり得ないことが分かり、安堵した覚えがあります。
その後、墜落現場の悲惨な状況や生存者が数名という前代未聞の大惨事、

坂本九さんが巻き込まれて亡くなったこと、など、

時間が経つにつれて、被害状況が克 明になっていき、

とんでもないことが起きたんだ、と実感しました。

さらに、墜落原因が、過去のずさんな修理による尾翼部分の破損と聞き、

飛行機の乗るのが 怖くなりました。

当時、飛行機なんて乗ったことはなく、

初めて飛行機を乗ったのはその20年後でもういい大人で子供のころあった事故なんか忘れていたので すが、

乗る時になんとなく日航機墜落が思い出され、一人で緊張していた覚えがあります。
今も墜落現場は整備され、御巣鷹の屋根には、

いまも命日に遺族や日本航空関係者が慰霊に訪れていると聞いています。

昼間まで元気だった家族が、一瞬にして この世からいなくなった悲しみは、

30年経った現在もまだある方もいるでしょう。

しかも、この事故は、悪天候などの天災ではなく、

明らかに人災です。その 点でも無念だったろうと思います。
あれから、30年。航空技術は進歩し、

事故防ぐ技術なども色々開発されてきましたが、

先日の広島空港の事故など、航空機事故があとを絶たないのも事実です。

いつか、安全に、

また万が一事故が起きても最低限人命の安全は確保できるような技術が開発されてほしいですね。

日本航空123便墜落事故

昭和のニュースは時代のせいもありますが、

どぎつい報道が多くて印象に残るニュースが多いのですが、

何と言っても一番衝撃的だったのは、日本航空123便墜落事故です。

1985年(昭和60年)8月12日(月)の18時頃、

羽田空港発で大阪伊丹空港行きの日本航空123便が、

群馬県上野村の通称

「御巣鷹(おすたか)山」に墜落、

死者520人、負傷者4人という日本の航空事故としては最悪の墜落事故が発生しました。

この事件については、

関連する記録や出版物などを今までに多く読みましたし、

事故現場である御巣鷹山の慰霊碑をお参りしたこともあります。

なお日本の航空史上最悪の墜落事故でありながら、

事故原因はボーイング社の修理不適切による圧力隔壁の破損という公式調査結果が発表されたものの、

誰もが納得できる調査報告とはいえず、いまだ再調査を求める声も多いそうです。
実は米軍や自衛隊のミサイルに破壊されたのだ、

という異説なども、まことしやかに囁かれたりしています。

また当時はなんでもありの時代、

ということで、御遺体の写真がフライデーやFLASHなどの写真週刊誌などに掲載されていたりと、

今では考えられないよう なやんちゃな報道がされていましたが、現在でも、

インターネット上では当時の悲惨な写真や、

ボイスレコーダーの生々しい音声なども閲覧、視聴することがで きます。

現在も事故発生日にはテレビ各局で特別番組が放送されるなど、

未だに日本国民の心に深く印象付けられた大事件ですが、

事件当時は高校生だった自分がこの墜 落事故に深く衝撃を受けたのは、

その頃、父親が実家の金沢から埼玉県に単身赴任していたのですが、

夏休みに父親の所へ単身で遊びに行って、

帰りは親子2人 で、羽田空港から小松空港へ飛行機で帰ったのですが、

その日がまさに墜落事故の当日であり、

羽田空港から小松空港へ向かう飛行機の発着時間も、

日航123 便とほぼ同時間であった、ということが理由です。
事件については、事故直後の19時か20時頃だったと思いますが、

小松空港に迎えにきてくれた母親が運転する車中のラジオ放送で初めて知りました。

当日は天気が良かったのでありえないのですが、

もし自分たちが乗る飛行機にトラブルがあったら、

羽田から大阪経由で小松に向かう・・・

もしかしたら日航123便に乗っていた可能性もゼロではなかったということになり、

余計に印象に残ってしまいました。
羽田空港内で、

事故で亡くなられた多くの人たちと同じ場所に居合わせたのだな、

と思うと、とても感慨深いものがあります。

事故から30年が経ちましたが、

この事件は風化させてはいけないと思います。被害者の方々のご冥福を心からお祈りします。

いまだに報道された日の衝撃を思い出す日航機墜落事故

いまだに報道された日の衝撃を思い出す日航機墜落事故
今年が、事故発生からちょうど20年となるこの大惨事。

事故が起こった昭和60年(1985年)当時、

自分は高校生でした。事故当日の8月12日は、夏休みで1日中家のTVを見ていました。
部屋の中が薄暗くなってきた頃だったと思いますが、

いきなり日航機の速報テロップが流れました。確か最初は墜落ではなく、

機体が行方不明になったとか、不確かな情報だったように記憶しています。
それからは、夜中までずっとTVの報道番組を見続けていました。

翌日になって飛び込んできた衝撃的な映像は、

恐らく一生自分の中で記憶から消える事はないでしょう。
500名以上の方が一瞬で亡くなったという残酷な内容だけでなく、

あの阿鼻叫喚の地獄絵図の中から3人の女性が助け出されたという事実に、

震えるような強い衝撃を受けました。

一体、どうやったらあの中で生き残ることができたのか、奇跡としか思えません。
また、当時一世を風靡していた写真週刊誌の中で、

確か「EMMA(エンマ)」だったと思いますが、

TVなどで放送されない遺体だらけの現場写真を掲載していて、

高校のクラスメートがそれを持っていたのを覚えています。
その当時は大阪の吹田市に住んでいましたが、

周囲で乗客とかかわる人は直接にはいませんでした。

でも、後に自分の知人の知り合いが乗客として乗っていて事故に巻き込まれた、

という話を聞いた事があります。
この事故ですが、Webや書籍などでも見られるように、

実際にはミサイルで撃墜されたとか、

いろいろ「陰謀論」なども展開されているようです。別の人から は、

自衛隊の特殊部隊が最初に現れて、

まだ息のある人達を次々にダガーナイフで殺傷していって証拠を消したとか、民間の人がそれらを見ていた、とか言って いました。
なるほど、いろいろな説を想定するのは自由ですし、何らかの陰謀が実際にあったとしたら追求すべき事でしょう。でも、子供を含め500名以上の人が一瞬で命を落とした事に対して、もっと的確な情報を確認して、慎重な発言をした方がいいのではないか、と感じました。
自分自身が学生の頃から不自然に感じた点は、

事故の原因とされた圧力隔壁なる強靱で大きなパーツがそんなに簡単に破損するのだろうか、

しかもそれが原因な のであれば、取り付けたボーイング社、

もしくは修理した事があるとすれば修理した側の責任の所在は明確にできるはずで、

それに伴う莫大な損害賠償が発生し て当然だと思ったのです。
しかし、現在の報道でも、

見せられるのは事故現場の御巣鷹山の悲惨な現場と救助シーンばかり。

数か月前、あるTV番組でこの事故が発生する一連の様子を再検証していて興味深く見ましたが、

やはり補償などアフターの話は皆無でした。
自分を含め、人間はとかく衝撃的なシーンばかりに気を取られて、

その後の責任の所在であるとか、

地味ながら肝心な点などを見過ごす傾向があると思います。
自分にとって昭和時代に最も衝撃的と感じるこの事故については、

詳細にわたって丁寧な報道を続けて欲しいと願っています

日航機墜落事故

子どもながらにとても衝撃を受けた事件といえば、日航機墜落事故です。
飛行機が墜落をしてバラバラになった映像は子どもながらに怖くて今でもその当時のことを思い出します。
その時に飛行機は絶対に乗りたくはないと思ったものでした。

1985年、昭和60年の8月12日に群馬県に飛行機が墜落をしました。
夏の暑い時期でお盆休みに入る直前の夕方ということもあり、帰省客も多かったようです。
これから楽しい夏休みという方もいらっしゃったでしょう。
ちょうど甲子園の時期でもあったので、

甲子園に行くためにひとりで搭乗をした子もいたようです。

事故が起きた当時の記憶の中でもほとんどの方が亡くなった、

というのは印象に残っています。
大人になってから詳細を知る機会もありましたし、

ドラマ化されたりこの事故をモチーフにした映画も公開され、

それだけ世間への影響力が大きな事故だったのだ、と思いました。

今は普通に飛行機を利用していますが、

何年か前に日航機墜落事故当時のボイスレコーダーを公開したテレビ番組があり、

その放送日の翌日に飛行機に乗るということがありました。
その時はさすがに怖かったです。
もしも同じような状況がこれから乗る飛行機に起きてしまったら、

と考えると絶対に安心できるわけではないと思ったのです。

事故当時、一度に500人以上の命が失われてしまったこともショックでした。
たくさんの人が一瞬のうちに亡くなってしまう。
自分がどういう状況におかれているのかも分からないまま、

命が奪われてしまうというその怖さもハッキリと覚えています。

事故の原因については、当時はよく分からない部分があったようです。
それでも整備不良ということで人的ミスだったということも許しがたいことだと思いました。
同じ飛行機が羽田から大阪に向かう前に整備関連のトラブルを起こしており、その対処についても行われていなかったというのは驚きました。
現在であれば、機体にトラブルが起これば別の機体でフライトを行うなどの対策を考えると思います。
当時はまだそこまで考えることができなかったものなのでしょうか。
お盆という時期も関係していたのかもしれません。
繁忙期ということと、満席だったということも関係しており、その影響もあって欠航をすることができなかったのかもしれません。
安全よりも利益を追求していたのであれば、あってはいけないことでしょう。

こういう事故は2度を起こって欲しくないです。


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