最強の格闘家は誰だ?日本の格闘技の歴史、平成編、前田日明が格闘王

2019年11月21日

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アントニオ猪木の異種格闘技、極真空手の空手バカ一代などの懐かしい、昭和の格闘技ブームが終わり、

格闘技は下火になっていたが、私達少年はやはり強い男に憧れる。

いつの時代もこれは変わらないのかもしれない。

平成元年、1989年、

私は16歳だった。

 

この時代格闘技雑誌という物がちらほら出始めた。

よく書店で立ち読みしたり、また購入していた。

この時代に書店で売られていた格闘技関連の雑誌を思い出してみると、

「格闘技通信」

「ゴング格闘技」

「フルコンタクトKARATE」

「マーシャルアーツ」

「月間空手道」

「パワー空手」

また、一般の書店では売られていないのだが、

「現代空手マガジン」という超マニアックな雑誌もあった。

平成元年はまだ格闘技ブームが起こる寸前の時代であった為、それ程私達に情報はなかった。

 

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格闘王前田日明

 

当時の格闘技雑誌はプロレス雑誌から派生した「格闘技通信」や「ゴング格闘技」などが、

中心であった為に、プロレス系の記事が多かった。

 

よって、雑誌の表紙や巻頭は、UWFの前田日明や、元タイガーマスクの佐山聡など、

UWFという格闘技の形をしたプロレスの記事が、あたかも真剣勝負を行っている様な記事が書かれていて、

純粋な格闘技ファンはちょっと違う!と思って格闘技雑誌を見ていたものだ。

 

当時の格闘技雑誌は、UWF特に前田日明を表紙にする事が多かった。

私も当時格闘技雑誌が前田日明の特集を組むのだから、UWFの試合は真剣勝負で、

やっている物だと思っていた。

 

その後、UWFが解散して、前田日明はリングスという団体を立ち上げるのだが、

UWFの試合は蹴りや関節技の応酬で地味な試合展開になる事が多かった。

 

しかし、真剣勝負故に地味な展開になる事は当然じゃないか!と思っていたものだ。

しかし、実際は違った、前田日明は真剣勝負ではなく、ブックが存在する格闘技っぽい、

プロレスを行っていた。

 

前田日明が格闘王になった瞬間

前田日明が格闘王の称号を得たのは、アメリカのキックボクサー(マーシャルアーツ)、

ドン・中矢・ニールセンとの戦いであるのは間違いない。

 

1986年に両国国技館で行われた、「INOKI 闘魂 LIVE」で行われた試合である。

この試合はメインイベントで、アントニオ猪木と、プロボクシング元統一ヘビー級王者、

レオンスピンクスのお膳立ての試合だった。

 

しかし、この前田VSニールセンの試合がいかにも異種格闘技戦の戦いになり、

緊張感、攻防が大変素晴らしかった為、前田の名声は上がり、猪木はしょぼいという、

風潮になり、真剣勝負は前田日明、猪木などのプロレスは所詮インチキという、

風潮が世の中に漂っていた。

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前田日明と、ニールセンの睨み合い。

ニールセンは、アメリカのマーシャルアーツ(全米プロ空手、WKA)のクルーザー級のチャンピオンで、

パンチが強い選手との触れ込みであったと思う。

 

得意のパンチで前田を苦しめるニールセン、しかし一瞬の隙をついて、

前田の逆エビが決まり、ニールセンがギブアップする。

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この真剣勝負ではない異種格闘技戦から、平成の格闘技の歴史は作られたと言っても、

過言ではない。

 

関西の喧嘩最強伝説で必ず名前の出る、前田日明、

中には、前田なんて大したことないという意見もあるが、

大したこと無い奴が、格闘技ブームの礎を築く事など出来ないのだ。

 

強いとか弱いとかの次元を超越して、その格闘センス(魅せるという意味)

は、凄い選手なのだ。

兎に角後の、平成の格闘技ブームを作ったのは、前田日明である事は間違いない。

身長192cm、体重115キロ。

その存在感だけで強いという説得力があるのだ。

当時こんな巨体を持った格闘家はいなかった。

 

当時の格闘家、又は格闘技を志す者は知っていたのだ。

実戦において体の大きさは勝敗を分ける大きな要素であったと。

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