プロレス伝説の一戦(14試合)猪木、鶴田、天龍、前田、藤波、キッドなど

2019年11月20日

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プロレス伝説の一戦はこれだ!

 

という事で、

プロレスファンの間で今も語り継がれている試合を紹介します。

 

長いプロレスの歴史の中で、

伝説と呼ばれる試合があります。

 

今日はそんなプロレス伝説の一戦を紹介します。

 

今回紹介する試合は、プロレスの歴史を語る上で、

欠かすことの出来ない試合です。

 

日本で行われたシングルマッチに限定してお伝えします。

 

当然プロレスファンなら、それぞれ伝説の試合があると思いますが、

今回は私の中の伝説の一戦という事でご了承下さい。

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プロレス伝説の一戦

日本のプロレスの歴史は、

日本が戦争に敗れた後、再び立ち上がろうとした時代、

街頭テレビの中の1人のヒーローから始まりました。

 

まさに伝説。

 

その伝説の男と柔道の鬼と呼ばれた男。

 

全日本13年連続保持、15年間無敗のまま引退した男の戦い。

昭和の巌流島と呼ばれたこの試合から、

スタートします。



力道山対木村政彦 1954.12.22 蔵前国技館

日本にプロレスブームを巻き起こした、昭和のヒーロー力道山。

空手チョップを武器に、外国人選手をなぎ倒す姿に日本人は勇気付けられました。

一方柔道史上最強の男と呼ばれる木村政彦。

 

「木村の前に木村なく、木村の後に木村なし」

とまで呼ばれた伝説の柔道家は、力道山の試合中の突然の豹変に合い、

凄惨なセメントでKOされてしまう。

出典:goo.gl/GhKJDA

木村は前日酒を飲みホテルでくつろいでいた。

 

力道山という男とプロレスを舐めていた。

 

力道山はいざとなったら、

本気で殺しに来る危険な相手だったのです。

 

この試合の前座、芳の里淳三(力道山の相撲の後輩)と、

柔道五段市川登の試合、

市川は芳の里の渾身の張り手を受けて、

KOされた。

 

その結果、市川は脳に重い障害を受け、廃人同然となり、

その後故郷で死んだ。

 

食事のたびに力道山から芳の里は、

市川を殺せと言われていたのです。

力道山についてはこちらの記事で詳しく解説しています。

https://ojisan777.net/?p=7150

アントニオ猪木対タイガー・ジェット・シン 1974.6.26 大阪府立体育館

タイガー・ジェット・シンを初めて見た時、

このオッさん本当に頭がおかしいのかと思った。

 

狂える虎とはよく言ったもので、

何とアントニオ猪木が妻の倍賞美津子と新宿で買い物をしている時に、

シンは突然猪木に襲いかかり修羅場となった。

1973年11月5日の出来事です。

 

この時猪木は大流血し、目撃していた人が警察に通報して、

警察沙汰になった。

出典:goo.gl/xZdtLv

猪木はリングの上で制裁を加えると宣言し、

シンとの抗争が激化していった。

 

そして、シンとの対立がピークとなった、

新宿の事件の翌年の6月26日、大阪府立体育館で行われた60分3本勝負、

2人は対戦した。

 

1本目はシンの反則攻撃で血ダルマになる猪木、

2本目猪木の怒りが爆発し、シンの腕を集中攻撃、

シンの腕をへし折った。

 

当日の会場の雰囲気は異常。

 

客が押しかけ入れない人が多数いた。

 

これから殺し合いが始まるのでは?

 

という異様な雰囲気だったそうです。

アントニオ猪木対モハメド・アリ 1976.6.26 日本武道館

WBA、WBC世界ヘビー級チャンピオンだったモハメド・アリは、

100万ドル用意するから、東洋人で俺に挑戦する奴はいないか!

 

と自民党の国会議員で日本レスリング協会の会長八田一朗に吠えた。

 

勿論これはリップサービス。

 

しかし、この発言に噛み付いたのが、アントニオ猪木。

出典:goo.gl/3iVBLZ

アリは世界最強のボクシングチャンピオン、

一方猪木は世界的に全く無名。

 

実現する事は無いと思われていた。

しかし、猪木は本気で実現に動きアリを挑発し、

アリもそれに乗ってしまった。

 

ギャラの折り合いが付き日本にやってきたアリは、

ホテルで連日パーティを行なっていた。

 

アリはこの試合が真剣勝負だと思っていなかったのだ。

 

事前に真剣勝負である事を伝えるとアリは驚いた。

公開スパーリングで猪木の鋭い蹴りを見たアリは、

本能的にやられると思い、

 

とんでもないルールを突きつけてきた結果が、

猪木アリ状態を作り出した。

 

プロレスの技は殆ど禁止だったのです。

 

猪木アリ戦についてはこちらの記事で詳しく解説しています。

https://ojisan777.net/?p=4708

ジャンボ鶴田対ミル・マスカラス 1977.8.25 田園コロシアム

千の顔を持つ男、仮面貴族と呼ばれるレスラー、ミル・マスカラスは当時、

日本のちびっこ達に大人気のレスラーだった。

 

全日本プロレスは夏休みにマスカラスを来日させて、

子供達のプレゼントとした。

 

これが全日本プロレスの夏の風物詩となった。

 

1977年のサマーアクションシリーズで行われたUNヘビー級選手権は、

壮絶な試合となった。

出典:goo.gl/CUcCKT

チャンピオンのジャンボ鶴田対ミル・マスカラスは60分3本勝負で行われ、

たくさんの子供達見守る中、

マスカラスは入場テーマ曲「スカイハイ」に乗って登場した。

 

スカイハイは話題となり日本でもお馴染みの曲となった。

 

3本勝負の1本目は22分経過した所で、マスカラスが鶴田を、

メキシカンストレッチで絞り上げると、

これに耐えきれずにギブアップした。

 

後が無いジャンボ鶴田は大技を連発させた。

 

ジャイアントスイングからジャンピングニーを決めると、

マスカラスを持ち上げ、リング上で回転、エアプレーンスピーン。

そして素早くトップロープに登り、ドロップキックを炸裂させた。

 

この攻撃で鶴田がカウントスリーを奪い勝利、

3本目はマスカラスのドロップキックで場外に吹っ飛んだ鶴田を、

トップロープからのフライングボディアタックで仕留めに来たマスカラスだったが、

リングに戻ったのはジャンボ鶴田。

 

マスカラスの脚が観客の椅子の中に入り、

マスカラスは脚を負傷してしまったのです。

前田日明vsアンドレ・ザ・ジャイアント 1986.4.29 津市体育館

大巨人アンドレ・ザ・ジャイアントがUWF前田日明に仕掛けたシュートマッチ。

不穏な空気は試合前の控え室からあった。

 

試合を裁くレフェリーのミスター高橋が前田の元にやって来て、

アンドレがお前を潰すと言っていると前田に言ってきた。

 

当時前田が行なっていたプロレスは蹴りや関節技主体の格闘プロレス。

特に前田は試合中に危険な技を出す為に、選手から嫌われていた。

 

新日本プロレスの外人レスラーの中でも親分格のアンドレは、

前田をこらしめてやろうと、リング上で喧嘩マッチを仕掛けた。

前田のプロレスに全く付き合わないアンドレ、

不穏な空気が会場に流れる。

 

しかし、この時アンドレは試合前に大量のワインを飲んでいて、

酔っ払っていた。

 

それが幸いした。

 

アンドレの動きは鈍く、前田を潰す様な攻撃は出来なかった。

 

リングサイドには、前田と同じUWFの盟友や、

アントニオ猪木まで現れる。

 

危険を察知した前田はアンドレの左右の脚に、

強烈なローキックを連続で叩き込む。

 

そして、膝への横蹴り。

 

アンドレの巨体が前に傾く。

 

かなり危ない角度の蹴りがアンドレに炸裂する。

 

アンドレもどうしていいのか分からなくなり、

その場に寝そべり、試合を放棄していしまった。

前田アンドレ戦に関しては、こちらで詳しく解説しています。

https://ojisan777.net/?p=6159

前田日明vs藤波辰巳 1986.6.2 大阪城ホール

IWGP王座決定リーグ公式戦、この日のカード前田日明対藤波辰巳の試合見たさに、

大阪城ホールに13250人の観客が詰めかけた。

 

前田日明のプロレススタイルは従来のプロレスとは違い、

打撃、投げ、関節技という現在の総合格闘技に違い。

 

新日本プロレス内においても、異端児とされ選手からは敬遠され、

噛み合わない試合もあった。

出典:goo.gl/Nb9FCG

 

そんな状況にフラストレーションを溜めていた前田日明だったが、

この試合後「たどり着いた島が無人島(新日)だと思ったら仲間がいた」

と語った。

 

前田日明の蹴り、そして関節技の容赦ない攻撃を藤波辰巳は全て受けきった。

特に前田の巨体から繰り出す蹴りの威力は抜群で、

ローキックからの顔面へのハイキックで藤波は何度もダウンした。

 

しかし藤波は前田の攻撃を受けても立ち上がり、

隙をついて、前田の御株を奪う蹴りで前田をダウンさせる。

 

また、2度ほどリングの下に落ちるが、

あくまでもリングで決着を付けると、

すぐさま2人はリングに戻った。

 

一進一退の攻防に観客は興奮。

 

前田日明が放った胴回し回転蹴りが藤波の額をかすめ、

藤波は大流血。

https://youtu.be/NGdmGyA8Alk

 

最後は前田の蹴りと藤波の蹴りが交錯し相打ちとなり、

両者ノックアウトで試合は終わった。

藤波辰巳の伝説飛龍革命についてはこちらで詳しく解説しています。

https://ojisan777.net/?p=8353

ダイナマイト・キッドvsデイビーボーイ・スミス 1984 2.7 蔵前国技館

タイガーマスクが引退し空位となった、

WWFジュニアヘビー級のベルトをかけて行われたリーグ戦、

ダイナマイト・キッド、デイビーボーイ・スミス、ザ・コブラは決勝に残った。

 

このリーグ戦に参加していたのは、小林邦昭、ブラックタイガー、

高田延彦など錚々たるメンバーが名を連ねました。

 

注目は誰が優勝してチャンピオンに輝くかと共に、

三つ巴の戦いである為、いとこ同士でタッグパートナーである、

ダイナマイト・キッドとデイビーボーイ・スミスが試合を行なった。

出典:goo.gl/uK8qrw

キッドはカミソリファイターとして、

日本でも非常に人気が高く、高い身体能力と鍛え上げられた筋肉から繰り出される、

高速ブレーンバスターや、ツームストンパイルドライバーで、

リング上を暴れ回っていた。

 

一方デイビーボーイ・スミスはキッドに遅れて日本マットに参戦していたが、

キッドより体が大きく、パワーはあの筋肉隆々のキッドをも上回ると、

実況の古舘伊知郎が伝え「筋肉の終着駅」と呼ばれていた。

キッドとスミスの戦いは、

三つ巴の戦い第2試合に実現した。

 

第一試合でコブラと戦ったスミスは、

両者リングアウトの引き分け。

 

そして、第2試合でキッドと戦った。

当然疲れているスミスは不利です。

 

筋肉の上に脂肪が乗っているスミスと比べ、

キッドは体に脂肪が少なく、髪の毛は坊主で、

無駄な物を全て削ぎ落とした、

カミソリファイターの異名通りの風貌です。

 

この2人、似ている様で全然違う。

 

比較するとキッドの凄みが分かります。

 

試合展開はスミスも善戦したのですが、キッドの超高速ブレンバスターや、

ツームストンパイルドライバー、

コーナーにスミスを振るとスミスがコーナーから弾け飛ぶなど、

キッドの凄いパワーに観客がどよめく。

 

リングアウト勝ちという結果だったが、キッドの圧勝の試合だった。

 

この後コブラとキッドが戦い、コブラをキッドは破りチャンピオンになった。

観客はキッドに物凄い声援を送った。

https://youtu.be/XR9Z9upOFWk

彼はこの時期ステロイドを大量に打っていた。

「俺は50で死んでもいい、最高の物をリングで見せる」と語っていた。

命を削ったキッドの凄みに魅了された試合です。

アントニオ猪木vsハルク・ホーガン 1983.6.2 蔵前国技館

猪木舌出し事件と呼ばれる事件が起こった試合。

第一回IWGPリーグ戦の決勝。

この試合は時間無制限一本勝負として行われた。

世界中に乱立するベルトを一つにするというコンセプトで始まった、

IWGP構想。

 

世界地区の代表がリーグ戦に出場し優勝を目指して戦います。

この戦いの勝者が真の世界チャンピオンだ。

決勝で激突した猪木とホーガン。

 

優勝は猪木と思われていたがホーガンが強い。

場外乱闘の時にホーガンのアックスボンバーが猪木に炸裂。

猪木は鉄柱に叩きつけられた。

ヘロヘロ状態の猪木は何とかエプロンに上がるが、

そこへ更にホーガンの追撃のアックスボンバーが猪木に。

 

猪木はそのまま場外に落とされ動かなくなった。

試合中のアクシデントという事で、ニュースでも報道されました。

 

猪木は病院に運ばれました。

これにはセコンドだった坂口征二も大慌てで、

猪木の舌を引っ張り出したり、口に何か噛ませたり。

 

猪木を葬り去ったハルク・ホーガンの超人的な強さに戦慄が走った。

それまでの外国人のエースであったスタン・ハンセンが、

全日本プロレスに引き抜かれたが、

ホーガンは短期間でトップレスラーに成長した。

しかし、更に事件が起こる。

 

病院に運ばれた重症のはずの猪木は、病室を抜け出し何処かに行ってしまう。

心配していた坂口征二は猪木の行動を知り、「人間不信」と一言書き残し、

数日間失踪した。

アントニオ猪木vsビッグバン・ベイダー 1987.12月.7 両国国技館

新日本のリングにやってきたTPG(たけしプロレス軍団)はファンから歓迎ではなく、

憎悪の目が向けられた。

鳴り響く帰れコール。

 

プロレスファンは当時一番の人気芸人たけしの登場に拒否反応を起こした。

そんなTPGに参謀としてマサ斎藤が付く。

 

マサ斎藤が連れてきたのは、化け物の様な大男、

190センチ、170キロ、

甲冑にドクロの付いた杖を持つビッグバン・ベイダーだった。

 

この日の試合は藤波、木村vsマサ斎藤、ビックバン・ベイダー組のタッグマッチ。

 

そしてメインイベントは、

アントニオ猪木と長州力の一戦だった。

ファンは猪木と長州の一戦を楽しみに会場に足を運んだ。

 

しかし、この日のリングに登場したマサ斎藤は、

猪木にベイダーとの一騎打ちを要求した。

出典:goo.gl/C9mQ3o

その要求が通り、メインで試合を猪木と戦うはずだった長州が、

ベイダーの代わりにマサ斎藤とタッグを組み試合を行う。

 

観客はしらけ、タッグマッチの途中、

「やめろ!」という声が上がる。

 

木村をフォールした長州は猪木と戦うと言い出す。

一試合消化した長州にスタミナは残っていない。

 

この試合も不完全燃焼に終わる。

 

猪木の卍固めが長州に決まると、

長州のセコンドの馳浩がタオルを投げ試合はあっさり終わった。

 

ファンのイライラに拍車がかかる。

 

そして、ダメ押しのこの試合、ベイダー対猪木。

ベイダーの攻撃に為す術なく猪木は簡単に敗れた。

何の見せ場も、盛り上がりもなく。

 

ファンは暴動を起こした。

https://youtu.be/f7zUqlwrpVo

ジャンボ鶴田vs天龍源一郎 1989.4月20日 大阪府立体育会館

プロレス界最強はジャンボ鶴田と言う人が多い。

元々はバスケの選手だったがオリンピックに出られそうという理由でレスリングを始め、

あっさりオリンピックに出場。

 

プロレスの試合で日本人選手と本気で戦った事はないと言い、

筋力トレーニングをする事も余りないと言われる。

 

何もしなくても強い、それが天才ジャンボ鶴田。

 

4月20日に行われた三冠選手権では、

天龍の容赦ない攻撃に場外に飛ばされるが、立ち上がりリングへ、

もう一度天龍のドロップキックを喰らうが場外へは落ちず、

立ち上がると天龍のブレーンバスターを切り返し、そこから怒涛の攻撃、

蹴り三連発から「オー!」で気合いを入れると、

天龍と攻防戦を繰り広げる。

 

天龍の大技デッドリードライブやパイルドライバーを切り返すと、

ジャンピングニーでダメージを与える。

そして天龍の体を引き起こすとパワーボムの体勢に、

出典:goo.gl/PonK3J

急角度でマットに叩きつけられた天龍。

天龍は動く事が出来ない。

 

鶴田はフォールの体勢に、あっさりカウントスリーが入り鶴田が勝利。

勝った鶴田もちょっと心配そうな表情を見せる。

 

勝ち名乗りを受ける鶴田とは対照的に天龍は全く動けない。

この技は後にジャンボ・リフトと呼ばれる技。

 

この技を喰らった天龍は泡を吹いて失神していた。

https://youtu.be/aP8D54gShYo

北尾光司vsクラッシャー・バンバンビガロ 1990.2.10 東京ドーム

大相撲の横綱だった北尾光司が特別待遇で新日本のリングに登場、

下積み無しでいきなりセミファイナルに登場した。

 

この試合の前にはハンセン対ビックバンベイダーという、

外国人レスラーの頂上決戦が行われていて、ど迫力のファイトを見せた。

 

北尾光司はこの試合の後にリングに上がったのだ。

出典:goo.gl/nULqkn

北尾のこの見た目に触れる前に、

まずハッキリとさせておかなければいけないのは、

新日本プロレスとの関係性です。

 

北尾は新日に入門したのではなく、あくまでもフリーランスとして、

新日に参戦した。

それだけ話題性があり集客が見込めると見られていたのです。

デーモン木暮が作曲した「超闘王」のテーマに乗って北尾が入場します。

 

角刈りに黄色のメッシュ、

そして革ジャンには変なトゲトゲがいっぱい付いている。

何処で売っとんねんそれ!

 

と思わずツッコミたくなりますが、

これは北斗の拳の大ファンだった北尾が特注で作らせた衣装です。

 

衣装を脱いだ北尾の肉体は脂肪でダルダルで、

ビルドアップされていませんでした。

 

会場からはブーイングや「帰れ」との声も飛びました。

 

試合はビガロが北尾をコントロールして、

北尾のギロチンドロップで北尾に勝たせました。

 

しかし、北尾はフィニッシュでロープに走る方向を間違え、

また違うロープにもう一回走り直してフィニッシュを決めるという、

酷い試合でした。

 

しかし、この試合はプロレスの歴史に刻まれた伝説である事は、

間違いありません。

高田延彦vs北尾光司 1992年10.23 日本武道館

新日を離れた北尾は天龍を頼ってSWSへ、

しかしそこでも問題を起こしクビになっていた。

 

その後北尾は格闘家になっていた。

 

身長201センチ、体重157キロという恵まれた体格は、

格闘技をするのには打って付け。

 

かつての無法者の北尾の印象は消え、

礼儀正しい武道家の北尾の姿がそこにあった。

 

高田延彦は前田日明と決別し、UWFインターナショナルを立ち上げ、

かつてのアントニオ猪木の様に、「最強」というキーワードで、

高田延彦をブランディングしていた。

出典:goo.gl/rYyKrp

高田との前哨戦となる山崎一夫との戦いに勝利し、

高田との一戦を行う事になった北尾だが、

ルールで揉める。

無制限一本勝負のルールを北尾は、

3分5ラウンドに試合直前に変更させた。

 

北尾は体重差を生かした膝蹴りや、

長身から叩き落とす裏投げなどの技を見せたが、

高田はローキックで北尾の脚を痛めつける。

 

そして3ラウンド、脚に気が行っている北尾は、

ローが来ると思った所に顔面への蹴りが来て、

避ける事が出来なかった。

 

北尾はノックアウトされた。

北尾の巨体はコンニャクの様にグニャッと崩れ落ちた。

武藤敬司vs高田延彦 1995.10.9 東京ドーム

前田日明の陰に隠れていた高田だったが、

北尾をハイキックで倒した事から評価が高まる。

 

しかし、テレビ中継が付いていないUWFインターナショナルは経営難に陥る。

 

高田以外メジャーな選手がいないというのも原因だった。

 

高田は遂に禁断の果実に手を出す。

 

新日本プロレスとの対抗戦です。

全くスタイルの違う新日本プロレスとの対抗戦はファンに衝撃を与えた。

出典:goo.gl/uu2S5E

格闘技とプロレス。

まさに水と油。

 

最強=高田というブランディングは崩れ去った。

 

武藤敬司の4の字固めにより高田は敗れた。

 

UWFスタイルこそ最強と思っていたファンは、

どこかプロレスを下に見ていた。

 

しかし、そのプロレスの象徴とも言える選手、

武藤敬司に高田は負けた。

 

会社を潰さない為の高田の決断だった。

翌年武藤にリベンジを果たすがファンは帰って来なかった。

 

高田のファンはプロレを見たいのでは無かったのです。

高田に最強の格闘家の幻想を持っていたのです。

橋本真也vs小川直也 1999年1.4 東京ドーム

プロレスの事件や印象に残る試合を思い浮かべた時、

アントニオ猪木の事を一番に思い浮かべる。

 

猪木の遺伝子を受け継いだこの2人、

橋本真也と小川直也の抗争は実に印象深く、

プロレスファン以外の人たちも知っている出来事ではないでしょうか?

 

柔道チャンピオンからプロレス入りした小川直也は、

デビュー戦で橋本真也を破った。

 

しかし、再選では橋本真也が小川をノックアウトし、

小川は失神してしまう。

 

そして、橋本真也との第3戦は歴史に残る不穏試合となった。

出典:goo.gl/3SwGFZ

試合に登場した小川の体は絞り込まれ、

かつての肥満の柔道家の面影は無かった。

 

オープンフィンガーグローブを着け格闘家スタイルに変貌した小川は、

試合が始まると、橋本のプロレスには付き合わず、

橋本を叩きのめした。

 

何も出来ない橋本。

 

プロレスの試合にならないと判断した橋本は、

レフェリーのタイガー服部に2度攻撃を加える。

1度目は顔面、2度目は蹴りを入れる。

 

その後小川にボコボコにされるが、

橋本が放ったレフェリーの蹴りが原因でゴングが打ち鳴らされた。

その後両軍のセコンドや関係者がリングに集まる。

 

小川はマイクを持ち「もー終わりかよ!新日本プロレスのファンの皆さん、

目を覚まして下さい!」と叫ぶ。

 

結果は無効試合となり、長州力も控え室から飛び出してきて、

リング上はカオスとなった。

プロレス記事まとめ

https://ojisan777.net/?p=12680

 

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