塩田剛三の強さにケネディもビックリ!やらせと思われる位い凄まじい強さ
塩田剛三、ケネディ大統領もビックリ!やらせと思われる程の強さ
塩田剛三は合気道の達人で、
「不世出の達人」「生ける伝説」と呼ばれた伝説の武道家です。
今この人を説明するのに、一番分かりやすいのは、
漫画バキシリーズに出てくる、
このキャラクター、
出典:goo.gl/Fx6Wtp
渋川剛気のモデルになった人ですよ、
という事ではないでしょうか?
私が塩田剛三さんの事を知ったのは、格闘技の雑誌で、
確か柔道の達人、木村政彦と対談していたのを見たのが最初だった。
この時代、塩田剛三も木村政彦も当然健在で、
普通に雑誌のインタビューに答えたりして対談が掲載されていた。
最初の第一印象は、このおじいさん、一体何者?
といった印象で、木村政彦が170㎝、85㎏に対して、
塩田剛三は、身長154㎝、46㎏なのです。
現代の女性であれば、160㎝を超えている人が多いが、
塩田剛三は更にそれを下回る体格なのです。
その塩田剛三が極めた武道が合気道です。
合気道という余り馴染みのない競技の名前、
また体格が小柄な老人なので、いやいや、強くないでしょ!
実戦で戦ったら、弱いでしょ。
格闘は勝ち負けに体格が大きく影響するでしょう?
何故なら、ボクシング、レスリング、柔道を見てみなさい、
みんなオリンピックでも、階級に分かれているじゃないですか?
そんな体が小さな人でも簡単に大きな人を倒せるのであれば、
体重別で階級を分ける必要がないじゃないか!
結局格闘は、体が大きな方が有利なんですよ!
ボクシングの最軽量の階級のチャンピオンが、
ヘビー級ボクサーを倒せますか?
と、思って塩田剛三に挑戦した人間は全員負けた(笑)
ケネディのボディーガードの話は有名だが、数々の武勇伝
まず、冷静に考えて欲しい、
何故日本の警察学校で合気道が採用されているのか?
ヤクザや過激派と殴り合いをする事のある、
機動隊が何故、合気道を研修に取り入れているのか?
時には、命のやり取りをする可能性がある警察官が、
格闘に役に立たない武道を取り入れるだろうか?
塩田剛三の華麗な演舞を見た事のある人間が、
あれは、インチキだ。演舞で投げ飛ばされている人は、
わざと投げられてるんだ。ヤラセに決まってるじゃないか?
「はっ、はっ、はっ!合気道なんて単なるお遊びだよ!」
と思って190㎝、100㎏のロバート・ケネディのボディガードは、
塩田剛三の腕をとったが、
まさにクモの様に地べたに這い蹲った。
格闘家が投げ飛ばされて肩を外された
格闘家の岩倉豪は、柔道、空手、柔術をバックボーンとする格闘家だ。
YouTubeに動画がアップされているが、
自称合気道の達人、柳龍拳と36歳の時ガチンコで勝負をし、
柳をボコボコにした。
その模様がこれだ。
この岩倉が後日語った内容に塩田剛三が登場する。
岩倉は若い頃、塩田剛三のセミナーに参加した、
岩倉は、塩田剛三に本気の左ストレートを放ったが、
そのまま投げ飛ばされ、肩を脱臼した事を告白している。
本物の合気道の達人は人体の構造を理解したうえで、
巧妙なトリックを仕掛けてくると証言しています。
塩田剛三は本物だと証言している。
鬼の木村に腕力で勝つ
「木村の前に木村なく、木村の後に木村なし」というフレーズで、
有名な最強の柔道家と呼ばれる木村政彦、
木村は塩田より年齢は下だが、拓大の同学年です。
拓殖大学最強の男と呼ばれていた木村、
木村は身長が170㎝と上背はなかったが、
1日10時間以上の猛稽古で全日本選手権13年連続保持、
15年間不敗を貫いた柔道家です。
木村の強さはその猛稽古だけではなく、
「負けたら腹を切る!」と決意して試合に臨む精神性にもあります。
負けたら死ぬと決意して戦っている人間と、
負けたらまた一から、やり直せばいいと思っている人間とでは、
立っている場所が初めから違うのです。
画像:goo.gl/hRPxvQ
学生時代、木村よりも2年先輩の塩田だったが、
2年間合気道の師匠に内弟子として、付いていた為、
拓大には、木村と同期で入学した。
その為、塩田と木村は五分の間柄だった。
そんな二人、木村と塩田剛三、血気盛んだった頃、
二人は腕相撲で勝負した。
塩田は木村との腕相撲は、3回勝負して、2勝したと語っていたが、
木村はこれを否定した、
いやいや、10回やって、10回負けましたと。
木村と言えば、柔道での実績も凄いが、
その後ブラジルで、グレイシー一族の長である、
エリオグレイシーと戦い、
エリオの腕をへし折った生粋のファイターです。
この木村相手でも、腕力勝負で勝利していたのだから、
塩田剛三が弱いはずはないのである。
但し、合気道は余り筋肉を付けてはいけない武道であるから、
師匠の植芝に隠れて筋力を付けたと木村との対談で、話していました。
合気道の塩田剛三、柔道の木村政彦、
空手の福井功を拓大三羽烏といいます。
当時無名だった塩田剛三だったが、
空手の福井と立ち会って、福井を倒し、
拓大三羽烏と呼ばれる様になりました。
大山倍達と塩田剛三
大山倍達は、極真空手の創始者で、喧嘩空手で知られている。
終戦後は、本人曰くグレていた事もあって、
ヤクザと喧嘩したり、用心棒をやったり、
とにかく実践派の空手家で、空手界の異端児と呼ばれていた。
木村政彦とも親しく、
木村の弟分という事で、一時は行動を共にしていた。
また、大山は当時、様々な格闘技関係者と交流を持っており、
太気拳の創始者の澤井健一と共に、
塩田の道場に見学に訪れたという話も残っています。
というのも、当時大山と澤井は自分たちの生徒を集める為に、
東京中の武術の道場を回り、道場破りをしていた。
しかし、残念ながら、この場では何も起こりませんでした。
ただし、その数日後、空手家が道場破りにやってきました。
塩田曰く、「きっと、彼らの弟子なんだろう」
結果は、空手家の蹴りはことごとく空を切り、
何も出来ないままに、塩田に敗れた。
これ以外にも、大山と塩田には、繋がりがあります。
大山は戦後、
空手界の異端児と言われ敬遠されていた話をしましたが、
当時政財界の黒幕の1人と言われていた、
田中清玄に気に入られた大山は、自分を売り出す為に、
色々なバックアップを受けている。
田中清玄は自身が武家の出という事で、幼い頃から、剣道、
合気道、空手を熱心に稽古していた。
(空手の和同流の普及に力を入れていた)
戦後、この田中清玄の所に、元軍人や武術家が集まっていた。
その1人が大山。
田中清玄は戦争が終わった翌年の昭和21に、
横浜にいた米軍の関係者に合気道の真髄を見せたいという事で、
塩田の師匠植芝に演武の依頼を申し込んできた。
その演舞を行なったのが、塩田です。
演武は昭和21年の8月に横浜で行われ、
50人の米軍関係者の前で披露された。
観覧者の中から、相手をしたいという人も出てきて貰って、
合気道の技を披露した。
塩田の事を気に入った田中は後日、
塩田を秘書にいしたいと申し出て、塩田は田中の秘書になった。
田中を通じて、大山とも面識があったと思われます。
必ず出てくるヤラセだと力説する人
塩田剛三の演武を見て、「あんなのインチキだ!」
弟子と打ち合わせしているに決まっている!
と力説する人は多い。
塩田剛三の余りにも常識とかけ離れた、動き。
とても一般人には理解が出来ません。
中には、塩田剛三を賞賛する様な記事を見つけると、
如何に塩田の合気道がインチキかを熱く語っている人がいます。
しかし、その反対に実際に塩田剛三の元を訪れ、
指導を受けた格闘家や武道関係者から、
否定的な事を言う人の意見を聞いた事がない。
また、インチキだと言うのであれば、
現在塩田剛三は亡くなっているので、戦う事は出来ないが、
その弟子の人に真剣勝負を挑んでみればいい。
弟子なんだから、塩田剛三より確実に弱いはずであるから、
勝てる可能性があるのでは?
戦いを挑んで、勝ったと吹聴している人を知らない。
塩田剛三の元を訪れた人達
塩田の元には様々な格闘技関係者が訪問し、
その演武を見学したり、指導を受けています。
マイク・タイソン
1990年2月ドンキングと共に、養神館に訪れて、演武を見学している。
タイソンが注目したのは、塩田の足の動き、
「これは、力の技ではなく、タイミングの技だ」
と発言している。
前田日明
出典:goo.gl/kJxq56
雑誌でも対談しているし、養神館に訪れて、演武を見学している。
見学した時、自分に技をかけて下さいと頼んだら、
小柄な老人に取り押さえられて、前田は動けなかった。
それ以外にも大相撲の舞の海、
漫画家の板垣恵介などが塩田の元を訪れている。
塩田剛三の段位とプロフィール
1915年9月9日生まれ、1999年7月17日
合気道家
身長154㎝、46㎏
1961年 植芝盛平より、合気道9段の免状を受け、
1985年、国際武道院より、合気道10段、
1988年には国際武道院より、合気道名人位を授与している。
※植芝盛平は合気道の開祖、植芝盛平の師匠は、
大東流合気柔術の創始者、武田惣角。
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