大久保利通暗殺の理由とは?犯人はどうなったか(紀尾井坂の変)

大久保利通暗殺の理由と暗殺犯の運命

大久保利通は、西郷隆盛や木戸孝允と並んで維新の三傑と呼ばれた幕末の政治家である事は有名ですが、1878年(明治11年)5月14日に暗殺されました。

この出来事を「紀尾井坂の変」(きおいざかのへん)といいます。

 

大久保利通は何故暗殺されたのでしょう。今日は、大久保利通の暗殺にスポットを当てて、

暗殺の理由や、暗殺の犯人は誰なのか?また、その暗殺犯はどうなったか?

などを書いていきたいと思います。

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大久保利通の暗殺理由と暗殺犯

大久保利通の暗殺理由

斬奸状(ざんかんじょう)に書かれていた事

斬奸状とは、悪者を斬り殺す理由が書かれた文章です。

この斬奸状を、大久保利通を暗殺した時に犯人は持参していました。

その斬奸状には、こんな事が書いていました。

■国会も憲法も開設せず、民権を抑圧している。
■法令の朝令暮改が激しく、また官吏の登用に情実・コネが使われている。
■不要な土木事業・建築により、国費を無駄使いしている。
■国を思う志士を排斥して、内乱を引き起こした。
■外国との条約改正を遂行せず、国威を貶めている。

これらの内容を見ると、暗殺を行なった者は、大久保利通が、自分の為に国を私物化し、

好き勝手やっている独裁者と見ていた為、暗殺したと思われます。



実行犯

この暗殺事件の実行犯は、以下の6名です。

主犯 島田一郎
長連豪
杉本乙菊
脇田巧一
杉村文一
浅井寿篤

日本政府に不満を抱いていた士族です。士族とは元武士の人達。

主犯とされているのが、島田一郎です。

 

当時士族達は明治政府に不満を募らせていた。各地で士族の反乱が起こっていた。

(神風連の乱や、秋月の乱、萩の乱、そして西郷隆盛が決起した西南戦争)

元々武士というのは、藩に仕えて給料を貰っていた、この藩の借金や士族への給料の支払いを明治政府が引き継いだのですが、この歳出がとても大きく負担となった為、

特権階級だった、士族を廃止し、お金も払わないとした。

はぁ?ふざけやがって!と士族達は激怒した。そんな社会背景もあり、

この暗殺者達は、不満を持っていた。しかし、各地で起こった乱も鎮圧され、

うまくいかない事がら、要人暗殺に切り替えられ、そして狙われたのが大久保利通です。

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暗殺の様子の様子

暗殺当日

暗殺が行われたのは、5月14日、午前8時頃、大久保利通は自宅を出発した。大久保の自宅は、麹町区(現在の千代田区)三年町裏霞ヶ関にあった。

明治天皇に謁見するために、赤坂仮皇居に向かった。

8時30分頃、その時は訪れた。

暗殺現場

紀尾井町清水谷(紀尾井坂の付近、現在の衆議院清水谷宿舎前)で突然、6人の男が大久保利通を乗せた馬車を襲った。

襲撃の様子

男達はまず、馬の脚を刀で切った。そして馬車を運転していた、運転手を刺殺した。

そして、馬車の中の大久保利通を引きずり出した。大久保は「無礼者!」と叫んだ。

暗殺者達は、容赦なく大久保に刀を振るい惨殺した。

大久保の亡骸に残された刀傷は、16箇所に及んで、殆どが頭部に集中していたといいます。

頭は割れて、脳が飛び出ていたそうで、首に突き立てた刀は、地面に突き刺さっていたといいます。

暗殺のその後

犯人のその後

犯人達は、大久保の罪五条と、他の政府高官(木戸孝允、岩倉具視、大隈重信、伊東博文、黒田清隆、川路利良)の罪が書かれた斬奸状を持って自首した。そして、同年の7月27日に判決を言い渡され、即日処刑された。

殺された大久保利通

出典:goo.gl/6FrMF5

彼らが殺害した大久保利通は、私腹を肥やしていると思われていたが、実は違って、

自分のお金を国の為に使っていて、(公共事業を私財で行う)大きな借金があった。

彼らが思っていた人間と真逆の人だった。

では、最後にこの大久保利通暗殺とは、何だったのかという事について、

歴史好きの方に語っていただいたので、最後に紹介します。

明治維新屈指の政治家大久保の暗殺

大久保利通は幕末の英雄で、数多くいる幕末志士の中でも、

維新後に次々に倒れていく中で生き残って政治の世界で圧倒的な存在感を見せる人物です。

それでも幕末といえば、坂本龍馬や西郷隆盛、

高杉晋作といった志士がその存在感を見せていました。

 

どちらかというと大久保利通は地味で目立たない存在でした。

 

そして人斬りが横行した京都で人斬り半次郎を使い、

政敵を次々暗殺していく首謀者と移っていました。

その実行力は並々ないものがあったと思います。

 

その大久保は朝廷の岩倉具視と公武合体を推し進め、

粛々と新体制を築き上げていきます。

 

その後も討幕の動きを西郷とともに進めていき、

幕府が大政奉還を成した後に、

その勘案者である坂本龍馬を暗殺したとも言われます。

 

もし龍馬が生きていれば、討幕の動きは薄れ、

幕府は無くなりながらも、徳川慶喜が政権を握り、

薩摩はその傘下におさまる怖れもあった為に、

実行に移したのではないかと言われています。

 

確かに冷徹なイメージが残る大久保ならば、

やりかねませんがそれは未だに闇の中です。

 

龍馬死後、幕府は崩壊して徳川家も辞官納地を行い、

版籍奉還や廃藩置県など幕府体制での身分や領地を返上させ、

新しい形での国内統治体制を突き進めていきます。

 

そして明治新体制となり朝鮮を開国させる征韓論争が巻き起こり、

西郷隆盛と大久保利通が対立し、

結局西郷の主張が取り下げられ西郷は薩摩へ下野しました。

 

そこから明治新体制を巡って不平士族が反乱を起こし出します。

下野した西郷も鹿児島で西南の乱を勃発させ戦死します。

 

全国には西郷を心酔するものが多数おり、

大久保憎しと奔走するものが現れます。

 

石川県の士族である島田一郎はその一人で仲間を募り、

1878年5月14日に東京千代田区紀尾井町で馬車に乗って、

明治天皇を訪問する途中の大久保を6名で襲い暗殺しました。

 

大久保の罪状を民権の抑圧や国費の無駄使い、不公平な人材登用を挙げました。

 

大久保は当時日本国随一の政治家であり、

重要人物にも関らず護衛がつかなかったことが悔やまれます。

 

武士の世が終わり日本を近代化を行い、

国内を改革する為には武人よりも経済人を育成する必要があり、

それには旧体制にしがみつく不平士族は必ず存在したはずでした。

 

それを士族の身分やその待遇を剥奪して国際化の波に日本が呑まれないよう産業や教育の充実、国際人の育成は急務でした。

その改革第一の人物である大久保に死なれた日本は改革が遅れたと思われます。

警察組織は当時暗殺の情報を掴んでいたといわれます。

それを防げなかったことは痛恨の極みだと思います。

大久保は後進の教育も相当に考えていたと思われます。

 

大久保が生きていたらもっと違った体制になっていたことは疑いないと思います。

いずれにせよ大久保がいなくなった日本は、

その後迷走を続けて軍国主義の道に突き進んでいったとも思われます。

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