井伊直弼の桜田門外の変、暗殺は何故起こったのか、分かりやすく

桜田門外の変は安政7年3月3日に江戸城の桜田門外で、大老の井伊直弼(いいなおすけ)が、水戸藩を脱藩した17名の男たちと薩摩藩の1名の男に殺された事件です。

井伊直弼は、彦根藩の行列の駕籠(かご)から引きずり出されて、首をハネられました。

何故、この桜田門外の変は起こったのでしょうか。何故暗殺されなければいけなかったのでしょうか。という事で、出来るだけ簡単に、現代風にお伝えしたいと思います。

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井伊直弼の暗殺、桜田門外の変は何故起こったのか?

その時、幕府は2つの派閥が揉めていた

一橋派(ひとつばしは)VS南紀派(なんきは)

殺される井伊直弼は南紀派です。

そしてもう一方の派閥、一橋派。

中心人物は徳川斉昭(なりあき)水戸藩9代藩主

揉めてる内容

1.将軍が病気でかなり体調が悪い状態で後継もいないので、跡目問題で揉めている。

一橋派 一橋慶喜(徳川斉昭の息子)を推薦
南紀派 徳川慶福(紀州徳川家藩主)を推薦

2.鎖国中の日本にアメリカから、貿易しようぜと迫られていた。
アメリカから、ハリスというおじさんが軍艦で圧力をかけてきているが、幕府の中には、開国反対派と賛成派で揉めていた。

一橋派の中心人物徳川斉昭は開国反対派(攘夷派)
井伊直弼は開国派

その時の天皇、孝明天皇(こうめいてんのう)はアメリカいらん!と開国に反対だった。

幕府は天皇は反対しているし、ハリスのおじさんは早く開国しろと迫ってきてるし・・
困っていた。

また、同じ時に、将軍の家定がめちゃ病弱でヘロヘロだった。(後半は廃人の様になる)

一説には脳性麻痺と言われていて、暗愚で病弱と言って影でバカにする者もいた。

大河ドラマでは篤姫で堺雅人がこんな感じで演じていた。

出典:goo.gl/1JeSu2

子供がいないので、そろそろ、後継の事も考えないとねという事で、
後継問題が持ち上がっていた。

将軍の家定はこの状態に不満だった。後継問題を進めたがる一橋派を実は嫌っていた。

「俺の事を頭が悪く、病弱で、子供も作れないんだろうと思って、早く養子を決めろ、決めろと迫ってきやがる!」

また、一橋派の慶喜の事も嫌いだった。

「あの野郎、俺よりイケメンだぜ〜、気に入らなね〜!」

その時天皇とアメリカの貿易の話をしていた、老中首座(今で言うところの総理大臣、ヤクザで言うところの若頭)が大老の役職を設置して、この問題に当たらせましょうと将軍に提案。

大老は将軍の補佐役で臨時的に置かれる役職で、老中(今で例えると大臣)よりも上に位置します。

一橋派の松平春嶽を大老に推薦すると将軍は、いや、大老だったら、井伊直弼にしようと言いました。

将軍指名で井伊直弼は大老となった。

アメリカに関しては、井伊直弼も元々開国は反対だったが、アメリカを突っぱねていたら、戦争になるし、戦争やっても勝てないし、現実見たら、開国しかないな〜という事で開国派だった。

という事で、日米修好通商条約を天皇は拒否していたのに、井伊直弼は単独でハリスと締結した。

「何勝手に条約結んどんねん!天皇はアカンと言うてはるんやで!」と一橋派が怒る!

孝明天皇もキレる。

で尚且つ、将軍の跡目も南紀派の押す徳川慶福を後継者と決めてしまった。家定が慶喜の事を嫌っていたから、南紀派の思惑どうりになった。

その年に、徳川慶福は徳川家茂と名前を改め、徳川14代将軍となった。

孝明天皇ブチ切れ

孝明天皇はアメリカと条約を勝手に結んでしまった幕府に対して、ブチ切れました。

俺に黙って何やってんの!

孝明天皇は幕府ではなく水戸藩に対し

許可なく、何で条約したんじゃい!説明しろ!
■幕府と朝廷が一体となって、立て直しを計らんかい!その手紙を他の藩にも回せ!

という手紙(勅書)を送った。
これを戊午の密勅(ぼごのみっちょく)と言う。

幕府ではなく、藩と朝廷がやり取りした事が大きな問題になった。
当時天皇は幕府とのみやり取りが出来た、それが破られた。幕府のメンツが潰されたのだ。

井伊直弼からしたら、
「いや、いや、いや!ダメでしょそれは!天皇と藩が!幕府をないがしろにして!」

それ、天皇から来た手紙、幕府に渡しなさい!と井伊直弼は要求したが、

水戸藩の中で意見が2つに分かれた。

「幕府の井伊はんが返せと言って来ているから、幕府に返しまひょ」という意見と、

「はあ?天皇は、みんなに回せと言うてはるんやで!」という意見が対立した。

水戸藩の中で揉めて、幕府に返納されないので、井伊直弼は、天皇を悪者にするわけにもいかないから、水戸藩が仕掛けた陰謀として、大粛清を行なった。

これを「安政の大獄」という。

たくさんの人が死刑になったり、謹慎させられたり、隠居させられた。

幕府は朝廷に「天皇から幕府に勅書を返す様に言って下さい」と頼んだ。

朝廷から水戸藩に幕府に返す様に命令が出たが、水戸藩の中には、まだ、幕府に勅書を返すなという強硬派が言う事を聞かず、対立していた。

「井伊のやつ、調子に乗りやがって!」

この勅書を返す返さないで揉めて、返納反対の人達を抑える為に切腹する人まで出て来た。

強硬派達は、水戸藩を脱藩した。

「やったらぁ!」

そして、井伊直弼を殺りに行った。
安政7年3月3日 桜田門外の変が起こった。

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